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2009 Senmata Branch School Project, Shizuoka Art Gallery

2009 Senmata Branch School Project
14 November – 20 December 2009
Shizuoka Art Gallery
There once used to be a school called Senmata Branch School, a branch of Tamagawa Elementary School in a community of Kuchi-Senmata formed alongside the Abe River in Shizuoka City. This branch school was the only school for the people living in the district, and cheerful voices of children used to echo in the neighbouring forest and the river bank. This small school was cherished by the teachers and local residents, but closed its door in 1973 due to the depopulation. This project revisited the memories on the school by reconstructing the children’s school life through a series of interviews with those involved in the school and presentation of documentation photographs and installation based on the interviews.

奥仙俣アート・プロジェクト 仙俣分校(せんまたぶんこう)
2009年11月14日(土)~12月20日(日)
静岡アートギャラリー

奥仙俣でのプロジェクト静岡アート・ギャラリーでのプロジェクトのために、静岡市の中心を流れる安倍川(あべかわ)の上流、安倍奥(あべおく)を訪れた。ここにある集落、口仙俣(口せんまた)にはかつて静岡市立玉川小学校の分校である「仙俣分校(せんまたぶんこう)」があった。この分校は奥仙俣(おくせんまた)と口仙俣唯一の学びの舎であり、子どもたちの明るく伸びやかな声が森や河原に響き渡っていた。分校の教職員と地域の人々によって育まれてきた小さな学校は、過疎化により少しずつ児童が減り続け、昭和48年にとうとう閉校となってしまった。このプロジェクトでは当時のことを知る人々のインタビューや写真、記録を再構成することにより分校の記憶を辿りながら、安倍奥の子どもたちの日々を呼び起こしたい。

仙俣分校について
明治以来この集落にあるたったひとつの学校である仙俣分校。戦争の時代に疎開した子どもたちは戦争が終わってからもこの学校で学んでいた。「山間のすり鉢の底のような場所にぽつんと建っている木の皮葺き屋根の校舎は小さな寺子屋そのもの」であった。「危険な道路状況の場所を下校する子どもの安全を第一に考え教師も共に歩いた。」「家庭的で個人指導が充分にでき、全校児童のできること」など少人数での理想的な教育環境であったが、高度成長期とともに地域の子どもの数が激減、昭和48年に閉校となる。閉校となった後、仙俣の子どもたちは本校である玉川小学校で寮生活を送ることになる。

年表
明治6年4月
旧長妻田村曹源寺内の勧善舎の分社が、口仙俣村、奥仙俣村に設置される。
明治19年4月
小学校令による組織変更のため、勧善舎の名称は第五小学校落合尋常小学校柿島分教場と改称され、口仙俣、奥仙俣の分舎は同校仮分教場となる。
明治34年5月
落合尋常小学校の仙俣分教場として、口仙俣に設置される。
明治36年7月17日
長妻田分教場が玉川東小学校と改称され、玉川東小学校仙俣分教場として本校の所属となる。
明治41年3月
現在地口仙俣256の1番地(字オンマタ)に校舎設立。
昭和16年4月1日
安倍郡玉川村第二国民学校仙俣分校と改称。
昭和22年4月1日
安倍郡玉川村立玉川東小学校仙俣分校と改称。
昭和44年1月1日
静岡市と合併のため、静岡市立玉川東小学校仙俣分校と改称。
昭和45年4月1日
玉川地区、三小学校の名目統合により静岡市立玉川小学校仙俣分校と改称。
昭和47年4月1日
仙俣分校を仙俣教場と改称。
昭和48年3月18日
仙俣教場閉校式。
(資料:玉川小・玉川東小・玉川西小 統合30周年記念誌 玉川小統合30周年記念誌実行委員会)

愛子先生と仙俣分校
かつて仙俣分校の教壇に立たれていた築地愛子先生の静岡市内のお宅を訪問し、当時のことをお伺いした。愛子先生は昭和27年から昭和42年の間に本校を含めて13年間安倍奥の小学校に在籍された。当時の子どもたちの毎日の様子やご本人の子育てをしながらの教員生活などをお話しいただいた。愛子先生は退職されてからも奥仙俣の住民でもあった。分校の子どもたちに関するお話は、ひとりひとりに対する愛情や思いなどがあふれており、その言葉から教育に対する強い情熱を感じられた。

分校跡地にて
8月のある日、廃校になってから30年以上の年月を経て、現在は災害時の避難場所となっている仙俣分校跡地を訪れた。すっかり整地されてしまい、学校のあった痕跡がまったく感じられなくなったこの場所から、その足跡を探して散策するうちに私たちの発見したものは、コンクリートの板塀にペンキで描かれたかわいらしい動物たちのドローイングだった。当時の分校の敷地図と照らし合わせてみると「投てき板」があったとの記載があり、閉校時の記念文集から「先生と子どもたちが共同で作った」思い出の詰まった絵であることがわかった。

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